2014年1月3日金曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (1)実際の歩みの中で

愛を追い求めなさい。(Iコリント14:1)

※ この項を読むときには、まず、(0)を読み、その後(1)、(2)、(3)…と読み進めて下さい。
愛を追い求めなさい。(0)http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_12.htmlで、「愛を追い求める」歩みとは、どのような歩みかについて書いた。

ここでは、その歩みをもっと具体的に説明する。

クリスチャンにとって、「愛を追い求める」歩みとは、この世のそれとは異なる。
この世の人は、自分の人への愛情を10点から20点、30点と高めていく。

クリスチャンは、自分に愛がないことを認めることから始まり、
やはり自分には愛がないことを認めることで終わるといっていい。

神様を信じて歩み出すと、自分の罪深さ、愛のなさが露わにされる。

人を裁く。
人をねたむ。
人の困ったことには巻き込まれないことを願う。
自分はあの人よりはましだと思う。
人の失敗を喜ぶ。
人に無関心でもある。

「あの人はどうしてああなんだろう」
自分は正しいと思い、あの人は間違っていると思う。

「愛を追い求める」ために、私たちができることは、
その思いの一つ一つを神様にうったえることしかない。
人へではない、神様に思いのたけを申し上げていくことだ。

自分からは愛がひとかけらもでないことを知っているから。
愛は神様からしか現れないことを信じているから。
この自分の思いを自分で処理することができないことを知っているから。
この自分の思いを処理してくださるのはイエス様だけであることを信じているから。

すると、イエス様が事をなしてくださる。
イエス様ご自身が現れて下さる。
私たちを愛し、許し、その罪の身代わりとなって死んで下さった、
イエス様がイエス様の方法で。

これが、「愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)を実際に歩むということだ。
それは、
「自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねる歩み」
といっていい。
「愛とはかけ離れた私を通してイエス様の愛が現れる歩み」
ともいっていい。

私ができること、
それは、自分自身の罪を、自分ではどうすることのできない思いを
神様の前にさしだしていくことしかない。
だから、最後には、やはり自分には愛がないことを認めることで終わる。

しかし、その心には、感謝の心であふれている。
イエス様の愛が、イエス様の命が現れたことに。

愛を追い求めなさい。(2)へ
http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_8493.html


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