2012年1月8日日曜日

17歳のヨセフは未熟だっかのか 創世記37章

創世記37章に17歳のヨセフが登場する。

あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げる。
すると兄たちはヨセフを憎むようになる。

兄たちが、ヨセフの前におじぎをする、つまり、ヨセフが兄たちの上に立つという夢だったからだ。
さらにヨセフは、みながヨセフを伏し拝むと受け取れる夢を兄弟たちに知らせる。
これがもとでヨセフは、殺されかかってしまう。ここからヨセフの苦難が始まる。

この記事のヨセフについて2つの見方がある。

一つは、ヨセフは未熟だったというもの。
ヨセフは、父ヤコブに溺愛され兄たちに嫉妬されていた。それにも関わらず、自分のみた夢をそのまま伝えてしまった。兄たちの怒りを買うのは当然であろう。若いヨセフは兄たちに、人に配慮することのできない高慢である、未熟者であったというのだ。
この見方をする先生は、ヨセフは多くの苦難の中で人に配慮できるのものに成熟していくという。

もう一つの見方は、ヨセフの信仰はすばらしいというもの。
ヨセフは、自分の夢をそのまま兄に伝えた。
神様からのメッセージに自分の思いや考えを加えたり、人への配慮をで曲げたりせず
そのまま受け取る、そのまま伝える。これが、信仰者の姿であるというのだ。
この見方をする先生は、ヨセフは最初から最後まで信仰の生涯であったという。

全く正反対の見方。どちらをとるかは、その人の信仰によると思う。

私は後者の見方をとる。
神様からのメッセージを人に配慮して変えてしまうことは不信仰であると思う。

その証拠として、その後、ヨセフは牢屋の中で献酌官と調理官長の夢の解釈をするが、調理官長の死をそのまま伝えている。苦難のただ中のヨセフは、17歳のヨセフと変わらず率直。神様からのメッセージを人に配慮して曲げてはいない。
エジプトの飢饉を伝える夢の解釈でもヨセフはエジプトの危機を率直に語っている。そのことからヨセフはエジプトの宰相に任命される。


ヨセフは神さまとともに歩み続けた。神さまの言葉を人におもねる(人に恨まれることをおそれる)ことなく率直に語りながら。17歳という若者のときから、エジプトでその生涯を閉じるまで。

その歩みは私たちの模範であると思う。








0 件のコメント:

コメントを投稿